2012年11月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




他の動画を見ていたら、偶然サンデル教授が日本で行った「震災後の民主主義の復活」という動画に

出会った。講演という時間的な制約のなかでも、聴衆者の相反する立場の意見が聴き、それを新たな

議論へと導くサンデル教授の手法にいつも感心してしまう。



本当ならもっと掘り下げた議論を聞きたかったけれど、一つ一つの問題を深く議論すれば膨大な時間

がかかるものだし、少し消化不良なものを感じたのも仕方ないことだと思う。



講義の内容とは関係ないが、サンデル教授や全ての聴衆者には同時通訳用の機械が渡されていたの

にも関わらず、聴衆者の日本人同士が自分の意見を言い合う場面で、相手の日本人に対して、英語で

応える日本人が何人かいた。



尊敬している山中教授の受賞会見でも感じたことだが、話の内容に共感することはあっても、日本人

同士の会話で日本語で話すことは私にとっては当たり前のことだと思っているし、日常の会話で英語

の単語を多く使いたがる人間に昔から違和感を感じていた。勿論、これは私自身英語が苦手なので

そう思うのかもしれない。



自分の考えや想い、それを如何に相手に正確に伝えるか、それは本当に難しいことで英語の単語を

使わず日本語だけを話せば解決する問題でも決してないし、日本語の特殊性(音訓読みなど)も関係

しているのだろうか。



西洋の言語が枝分かれして成立してきたのに対し、日本語は逆に様々な言語が一つの幹となってきて

いること。これは安部公房さんが提唱されてきたことで、母語の違う集団(弥生人と縄文人)の子供たち

が遊びの中で、自然に新しい文法や言葉が生まれてきたという説(「縄文 謎の扉を開く」を参照)がある。



ただ、見知らぬ人間相手に英語の単語を多用する人は、この説(子供の遊びの中で自然に)とは違う

次元にいるのではと感じてしまう。



話を最初に戻すが、講演後の中学生の言葉で、「いろいろな意見が聴けて面白かったし勉強になった」

という言葉、この柔らかな感受性はいつまでも忘れたくないものだと思う。



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