2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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奄美にいたときの私。
長崎・佐世保で生まれ、3歳の時に私たち家族は奄美に移り住んだ。
佐世保の近くに黒島という隠れキリシタンが住んだ島がある。成人してからこの島と黒島天主堂を
訪れたときの衝撃とそこで与えられた意味は私の大切な自己基盤の一部になっている。
そして奄美大島、そこはシャーマニズム・アニミズムの世界観が残る地であった。幼少の頃はそん
なことなどわかるはずもなく、青く澄んだ海、赤い蘇鉄の実、さとうきび、そして怖い毒蛇ハブが住む
森を身近に感じていた。
「一人で森に入ってはいけない」と何度も言われた。それ程ハブが棲む森は子供にとって恐ろしい
場であった。逆に言うとハブがいたからこそ、昔の奄美の森は人間によって荒らされずに生き残っ
てきたのかも知れない。
ホピ族の有名な踊りに「蛇踊り」がある。砂漠に住む猛毒をもつガラガラヘビなどを多く集め、儀式
するのだが、その儀式の前に長老達は一つの部屋にこれらの蛇を置いて数日間共に過ごすので
ある。そして儀式が済むと蛇たちは丁重に元の砂漠に帰される。
確かに日本でも蛇信仰はあったと思う。母の実家・久留米の家では白蛇がおり家の人たちは大切に
その蛇を扱っていた。私は白蛇を見たことはないのだが何度もその話を聞いて育った。
創世記で蛇がイブを誘惑したことから生じてきたずる賢い悪魔の存在としての意味、そして蛇信仰が
残る地や奄美、両者には決定的な自然観・世界観の違いが横たわっていると感じていた。
前者からは人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然に対しての畏敬を失い森を切り開い
た姿が、後者からは脱皮を繰り返す蛇に、森の再生のシンボルとしての意味を見い出せるかも知
れない。
良くキリスト教は一神教と言われるが、私はそうは思わない。父・子・聖霊の3つの姿が互いに与え
尽くしている姿、三位一体はそのことを指し示しているのではないかと思う。
言葉では偉そうに「与え尽くす」と簡単に言うことは出来るが、それを肌で知り、示すことは私には
出来ない。インディアンの「ポトラッチ」、縄文時代での社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や
祭を通して平和で安定した平等主義、「与え尽くし」の社会。
ある意味でキリスト教の真実の姿を体現しているのが先住民族たちなのかも知れないと思うことが
ある。
まだまだ多くの疑問が私の中に横たわっているのだが、長崎・奄美から旅立った私の魂は、ブーメ
ランのように再びこれらの地に戻ろうとしているのかも知れない。
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「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。
六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ
ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな
ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。
それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始
めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」
コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉
「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著より引用
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(K.K)
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