2012年1月10日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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明治の軍人エリート野津道貫とインディアンの偉大な指導者レッド・クラウドとの邂逅、
そして日本刀に込められた想い
時は、1876年(明治9年)。写真は当時の野津道貫(1841〜1908)
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インディアンの偉大な指導者レッド・クラウドはリトル・ビッグホーンの戦い以降、合衆国に譲歩に
譲歩を重ねる道しか残されておらず、聖地ブラックヒルズも失わざるをえなかった。そんな指導者
に対して部族の中からも反感を買い、彼が死んだ時は親族とインディアン警察12人が参列しただ
けだった。失意の中で亡くなったレッド・クラウドだが、彼の部屋の壁には日本刀が大事に飾られ
ていた。「白人は私とたくさんの約束をしたが、約束は何一つ守られなかた。白人は、自分自身と
したたった一つの約束は守った。それはわれわれの土地を盗るという約束だった」・・・レッド・クラ
ウド晩年の言葉。
野津道貫は西郷隆盛や大久保利通に可愛がられたが、西南戦争時に政府側に立った心境を
「此時ほど大義名分と恩愛、義理との間に挟まれて苦しみ事は一生通じてなかりし」と述懐してい
る。野津がアメリカ滞在中、インディアン戦争を聞き族長レッド・クラウドが率いるラコタ族の居留
地に赴く。そこでアメリカ政府の役人がレッド・クラウドとの交渉をするその席に野津も立ち会うの
である。野津という人物は常に一兵卒と同じ食事をしなければ気が済まなかったし、宿舎も兵隊
のものを先に整えさせ、士官や自分のものをいつも最後にしたほど自己は厳しく律したが、情に
はもろい人間だった。
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「厳しい使命を負った54歳の族長に、35歳の美しい日本人士官は何を見たのだろうか。会話を
交わしたとしたら、いったいどんな話だったのだろう。野津ほどの人物なら、族長の深い苦悩を
読み取ったかもしれない。私の好奇心は熱気球のように膨らんだ。(中略)レッド・クラウドの日本
刀に関する資料はもう出てこないかもしれない。ただ、研究者の勘がどうしても、二人を結びつ
ける。いや、ひょっとしたら、失意のレッド・クラウドが、野津の美しく凛々しい顔を思い出し、あの
日本刀によって少しでも慰められたらと思いたい自分の気持ちがそうさせるのかもしれない。」
・・・阿部珠理
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上の文章はアメリカ・インディアンの研究では第一人者の立教大学教授・阿部珠理さんの「とも
いきの思想」から抜粋要約しました。
明治時代とはいえ日本刀が武士(軍人)にとって魂や命であった時代、何故野津は自身の日本
刀をレッド・クラウドに捧げたのか、またレッド・クラウドも何故その日本刀を死ぬまで大事に家に
飾っていたのか。野津は帰国後も、そして死ぬまでこの出会いに関して何一つ言葉を残していな
い。しかしこの邂逅で受けた衝撃が、彼の心の奥深くに突き刺さったが故に、野津は言葉にする
ことを拒んだと感じられてならない。
一方、野津道貫がレッド・クラウドに日本刀を手渡す瞬間、レッド・クラウドは差し出す野津に何を
感じたのだろう。それは言葉などではない。野津の熱い眼差しに、その込められた想いの全てを
感じ取ったに違いない。そして私も阿部さんと同じように、「失意のレッド・クラウドが、野津の美し
く凛々しい顔を思い出し、あの日本刀によって少しでも慰められたら」と強く思いたい。
(K.K)
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